鳥居のジュネーヴ便り 〜春夏編〜

執筆 2002.8.11

 ジュネーヴに住み始めて4ヶ月ほど経ち、こちらの生活もだいぶ落ち着いて来たところで、生活の様子をご報告します。

私は毎日フランスの田舎町から越境して(スイスはEUに加盟していないので一応ちゃんと税関検問がある)車で5分、快適にCERN(セルン)研究所に通っています。

 ジュネーヴ Gene`ve はフランス語圏ですが国際都市らしく多国籍で、アジア人やイスラム系の人の姿も街でよくみかけます。市の人口はわずかに16万、周辺のコミューンをあわせた州全体でも30万、それにジュネーヴをぐるりと330度囲んでいるフランス側(残り30度のレマン湖方面のみがスイスと接している)の町村を併せてもせいぜい40万人といったところでしょうか。こんなに小さい街ながら、国連関連の諸機関をはじめとして200もの国際機関が存在するため、人口の6割が外国人で、保守的なスイスの他地域とはかなり雰囲気も違います。

 妻は現在ジュネーヴ大学の夏期講座に通ってフランス語の特訓中。大量の宿題が大変そうだけど、簡単な言葉は分かるようになったようで毎日の生活をエンジョイしています。クラスメートには様々な国の生徒が来ていて、全部で600人くらいのうち国籍はなんと100カ国近くにのぼるそうで、エチオピア、コロンビア、トンガ、ブラジル、トルコ、ガーナ、シリア、コスタリカなんてところの人もいたそうです。

 以下にテーマ別にこちらの様子をお伝えしましょう。ただし長文ですのでお時間のあるときにでもお読みください。

目次

フランス選挙
ワールドカップ
スイスのスーパー
スイスの映画館
スイスの言語
ロマンシュ語
ジュネーヴとその周辺の歴史
建国記念日
ジュネーヴ祭
気候

フランス選挙

 5月にあったフランス大統領選挙は国を挙げての大騒ぎでした。なにしろ極右のルペン氏が決戦投票に残ってしまったのですから。今年のメーデーは全仏で反極右キャンペーンの日になったようで、私達の住むサンジェニ町(ジュネーヴ郊外なので他国籍の町である)でも、町長が移民締め出しをうたうルペン氏反対声明を読み上げていました。ところで、ルペン氏の敗因は、国民に(少なくともワールドカップで負けるまでは)大人気だったサッカーフランス代表を批判して、外国人がプレーしているのはけしからんと発言してしまったことだ、などと同僚のドイツ人がジョークを言っていました。

ワールドカップ

 もう熱も冷めたことでしょうが、football(サッカー)はこちらでも盛り上がっていました。こちらでは多くの試合がお昼時だったので、研究所の食堂近くにあるテレビの前にもブロンド山の人だかりでした。ただ、地元フランスは予選まさかの敗退だったので、自国チームのふがいなさを嘆く声、ひいてはもうフランスはだめだ、といった国全体の悲観論的ムードが漂っていました。特に、初戦のセネガル戦はフランスが旧盟主国なだけにショックが大きかったようです。それでもワールドカップ自体の関心は高く、トルシエ監督のお蔭か日本チームに好意的で、日本がいい試合をすると度々賞賛の声を個人的にもよく聞きました。ジュネーヴはご存知のとおり小さな街ながら国際都市なので、どこの国が勝っても誰かしらが母国の国旗を車の窓ごしに振ってクラクションを鳴らしながら大騒ぎして凱旋している光景が見られました。
 イタリアが韓国に負けた試合は審判が不公平だったとの声が強く、イタリアに旅行した日本人はしばしば「おまえは韓国人か?」と聞かれ、日本人だというと「それならいい」と言われたそうです。イタリアでは現代自動車の人気が落ちたとか。

スイスのスーパー

 スーパーというより、ハイパーマーケット hypermarche' がたくさんあって、土曜日に車で一週間分の買物を車一杯に買って行くスタイルが一般的です。ヨーロッパでは日曜は店は全て閉まっています。全ての商品にはミルクやミネラル水に至るまで、独仏伊の3ヶ国語で説明が書いてあるのはこの3ヶ国語が公用語になっているスイスならではでしょう。世界に輸出されているチョコレートに至っては、欧州やアラビアなど20ヶ国語が小さい字で書かれていますちなみにコーヒーで有名なネスレ社の本社はスイスのレマン湖ほとりにあるヴヴェイ Vevey という小さな街です。スイスのチョコレートは、ネスレ社が酪農国スイスの新鮮な牛乳と混ぜることで、世界で初めてミルクチョコレートを開発して以来一躍有名になったものです。

スイスの映画館

 5月に、日本では公開前のスターウォーズII を見て来ました。フランス語吹替え上映は沢山人がいるものの、英語オリジナル版上映の方はがらがらで、500人位の劇場に 50人ほどの英語人がいるだけでした。字幕にフランス語とドイツ語が1行ずつ、めまぐるしく表示されていました。今回は気にならなかったものの、場合によっては2行ずつ、イタリア語まで表示されて画面の下半分が文字で埋まってしまう場合もあるそうです。語学の勉強にはお勧めかもしれませんが...。

スイスの言語

 スイスには独仏伊の3公用語と、これにロマンシュ語を加えた4つの国語が認められています。(1996年の憲法改正により、ロマンシュ語を母語とする人に対して公の機関が用いるべき言語としては、ロマンシュ語も公用語として認められるようになっています。)

 実際にスイス国民が3、4ヶ国語に堪能なのかというと必ずしもそうではなく、それぞれの言語圏ははっきりと境界があります。中央スイスはドイツ語(人口比 65%)、西のスイスロマンド Suisse Romande 地域がフランス語(20%)、イタリア語(10%)はほぼ南のティチーノ Ticino 州でのみ、ロマンシュ語(1%未満)はグラウビュンデン州 Graubu"nden(独)(ロマンシュ語ではグリジュン Grischun という)の一部で話者わずか5万人と言われています。国境近くの街や、2ヶ国語以上の地域にまたがる州では両方話せる人が多いようです。

 ドイツ語圏の人は比較的フランス語やイタリア語、それに英語を解す人が多いのですが、フランス語地域の人などは学校で一応独語も習うものの、日本人が一応英語を習うのと似ていて、実際に話せる人はほとんどいません。ただし、ドイツ語圏の人が実際に使う言葉はスイスドイツ語(シュヴィーツァーデュッチュ Schwyzerdu"tsch)というなまりのきつい言葉で、ミュンヘンのあるバイエルン地域やシュトゥッツガルトのあるシュヴァーベン地方、またストラスブールのアルザス地方などの南ドイツ方言とは比較的近い関係にあるものの、標準ドイツ語 Hochdeutsch からすればほとんど別の言語で、ドイツ人にさえ理解できない言語です。これがテレビでも使われていて(スイスでは独仏伊おのおの2チャンネルの放送がある)、ニュースはなまった発音の Hochdeutsch ですが、討論番組やましてバラエティー番組(といっても真面目な国なので日本のような低レベルなおちゃらけ番組はありません)は完全にスイスドイツ語です。フランス語圏では当然標準独語を習うので、これでは自国民でも他地域とのコミュニケーションなどとれないというものです。これに対し、スイスロマンド地域のフランス語は、いくぶん発音になまりが認められ、また数字の70と90を septante, nonante と合理的に数えるなど若干の語彙が違う以外はほとんどパリのフランス語と変わりありません。昔あった方言は既にほとんど廃れてしまったそうです。

 言葉が違うことは人々の生活圏を規定しているのは想像に難くなく、実際、国鉄に乗っていても言語境の例えばフリブール Fribourg(仏)/フライブルグ Freiburg(独)という街では2等車の殆どの人が降りてしまって、乗客総入れ替えといった様相です。1等車(グリーン車相当)だけはネクタイ姿のビジネスマンが言語境に関係なく書類に目を通していましたが。

ロマンシュ語

 英語で Romansh、独語で Romanische、当のロマンシュ語では Rumantsch といいます。フランス語、イタリア語、ルーマニア語などとともにラテン語から派生したロマンス諸語の一つで、レート族の住んでいた地域(スイス東部からイタリア北東部)で話されていた言語。レト=ロマンス語 Rhaeto-Romance とも呼びます。イタリア北部のフリウリ州などで話されている言葉と同系で、スイスでは現在話者およそ5万。長年にわたるロマンシュ語連盟 Lia Rumantscha の努力の結果1960年代以来スイスの国語に認定され言語保護政策が執られています。スイスのテレビでもたまにロマンシュ語放送があります。

 7月にサンモリッツ St.Moritz(ロマンシュ語名 San Murezzan)や、ロマンシュ語を話すエンガディン Engadin(ロマンシュ語名 Engiadina エンジャディーナ、イン川の谷の意)の谷の地域にあるシュクオール Scuol という村を訪れた際に文法書を買ってみたのですが、シュとかチュとかツとかの歯音や破擦音が特徴的な音の響きや綴りはドイツ語的、文法はフランス語によく似ている感じでした。最近の現地の人は小学校低学年まではロマンシュ語で、それ以降はドイツ語で教育を受けるのでバイリンガル、またはトリリンガルの日常生活を送っています。ただし、現地のドイツ語はおそらくチューリッヒの人が聞いてもひどいくらいなまったスイスドイツ語で、またすぐ南にイタリアが接している(とはいってもアルプスを越えた先だが)のですがイタリア語もなまった感じでした。国際的保養地として知られるようになったサンモリッツではほとんどロマンシュ語は聞かれず、耳をそばだてて聞いてはもしやと思った変な言語はよくよく聞けばなまりのひどいドイツ語だったということばかりで、辺境のシュクオールまで旅してようやく本物のロマンシュ語に接することができた次第。

 現在話者の少なくなったロマンシュ語ですが、その中にも方言が5つもあって、従来はそのうち主要の2つを公文書などに用いていたようですが、言語の保存普及の為には統一した標準ロマンシュ語が望まれ、1980年代にチューリッヒ大学の学者に依頼して(原則として方言の最大公約数を採用する方式で)作った書き言葉ルマンチュグリジュン Rumantsch Grischun(グラウビュンデン州のロマンシュ語の意)を標準語として国家(連邦)レベルでも採用するように1996年以降なっています。スイスフラン(EUには加盟していないので当然ユーロではありません)の紙幣にも4国語が記載されています。

ジュネーヴとその周辺の歴史

 アルプスを越えてヨーロッパの北と南を結ぶ交通の要衝に位置するジュネーヴには以前から人が定住していたが、ローマ時代の紀元前58年、ジュリアス=シーザー(ユリウス=カエサル Julius Caesar)がまず進駐してこの地ゲナーワ Genava でヘルベティア族 Helvetii を迎え討ち(ちなみにスイス連邦のことを現在ラテン語で Confederatio Helvetica という)、その後ローヌ川沿いにリヨン Lugdunum 方面ガリア Gallia 地方(現在のフランス)へと攻め入る様がガリア戦記に書かれています。

 その後ゲルマン民族の大移動に伴い、ブルグンド族の受け入れと定住、第一次ブルグンド王国の首都となるも、やがてフランク王国の傘下に入り、第二次ブルゴーニュ王国に属し、さらに神聖ローマ帝国の傘下に。帝国下では司教が実質支配権を握り、これとシャルルマーニュ Charlemagne(カール Karl 大帝)時代の領主ジュネーヴ伯、および帝国に承認されたサヴォア Savoie(サヴォイア Savoia)伯との間で権力争い、一方で欧州の定期市会場として経済的に繁栄した街の一般市民による自治運動(コミューン)が力をつけてくる。

 16世紀に入り、カルヴァン Calvin がジュネーヴで宗教改革をなすやフランスやイタリアからの宗教避難民(ユグノー Huguenot、ルカ)を幾千幾万と受け入れることになり、ベルギー、オランダ、英国、米国へと波及したカルヴィニズムの本拠地として、後に政治亡命などを受け入れる国際都市としての下地ができあがる。スイスの有名な時計産業はジュネーヴにほど近いジュラ山脈に多くの工場(こうば)を抱えるが、こうした精密技術、印刷業、絹織物業、銀行業などの多くはこうしたユグノー達によってもたらされたという。

 さて年は1602年、数百年にわたりジュネーヴを虎視眈々と狙っていたサヴォアの軍勢が最後の奇襲攻撃を浴びせるべく、夜中に城壁を登り始めていた。ところが運良く、城壁の建物の部屋で丁度朝のスープの支度に数十人分のスープをぐつぐつ煮ていたロワヨームおばさんが気づき、なべごと城壁からスープをひっくり返したからたまらない。そこへ知らせを受けたジュネーヴの軍勢が駆けつけ、今度こそサヴォアを撃退、独立共和国の地位を確かにする。周辺のローザンヌ Lausanne などヴォー Vaud 地方、また現在ジュネーヴ州の諸地区がサヴォアの支配下にあった中で(ちなみにサヴォア家の紋章は赤地に細い白の縦十字。スイスの旗と似ているが、モントルーにあるシヨン城 Cha^teau de Chillonに描かれた紋章はサヴォア支配時のもの)、ジュネーヴだけは独立を保つことができたのでした。毎年12月11日前後の週末に中世さながらのエスカラード祭が開かれます。今年は400周年なので6月にも当時の衣装をまとった人や騎士の パレードなどがあったほか、様々なイベントが企画されています。

 18世紀にはルソーやヴォルテール、科学者ソシュール(後代の言語学者ソシュールは彼の子孫)などが輩出。

 その後フランス革命のあおりで新政府軍に15年間占領されるものの、ウィーン、パリの会議で独立を回復、悩んだ末に、プロテスタントが多くベルン州やフリブール州との同盟関係もあったことからスイス連邦に加盟。独立市民国家としての信頼の上に、スイス連邦の国是である永世中立政策が重なり、国際機関設置への理想的条件が整う。まずはアンリ=デュナンの提唱した赤十字。彼の母国スイスに敬意を表して、赤白を入れ替えた旗を採用している。(スイスの国旗は独立原初三州の一つ、シュヴィーツ州のものから採り、Schwyz が Schweiz シュヴァイツになってスイスのドイツ語での国名となっている。)そして第一次大戦後の国際連盟本部は、ブリュッセルを推す声もある中、自身もカルヴィニストだった当時の米国ウィルソン大統領の推薦もあってジュネーヴに置かれることとなる。第二次大戦後は国際連合(国連)の欧州本部および国連関連機関が多く置かれ(例えば国連高等難民弁務官事務所、世界保健機関、世界貿易機関(昔の GATT)などなど)、国際都市として知られるようになっています。ただし、永世中立政策の為、これまでスイス自身は国連にすら加盟していませんでした。今年国民投票で国連加盟がようやく可決され(これまでは否決されつづけてきた)、スイスも加盟することになりました。(似たような例で、国際免許はジュネーヴ条約により発効していますが、当のスイスは批准していないのでジュネーヴでの運転には使えません。短期滞在には日本の免許とその法廷翻訳が必要になります。)

建国記念日

 7月14日はフランスの革命記念日で、うちのサンジェニ町でも夜にちょっとしたお祭りがありました。さながら日本の盆踊りのように各市町村で祝います。もちろん午前中のパリの式典はシラク大統領出席のもと凱旋門前からシャンゼリゼ通りに行進する様がテレビ中継されていました。

 さて、8月1日はスイスの建国記念日です。時は1291年、ハプスブルグ家統治下の代官支配に耐えかねたスイス原初三州が相互援助協定を結びここにスイス連邦が誕生。その後ハプスブルグ家との連戦を破り独立を勝ち得るわけです。この歴史はウィリアム=テルの英雄伝説としてスイス人の心の支えとなっています。(この夏にアヴォンシュ Avenches という、ローマ時代のヘルベティア Helvetia の首都(ラテン語名 Aventicum)に残されたコロッセオでロッシーニ作曲オペラ、ウィリアムテルが上演されました。4幕の途中で雨が降り出して中止になってしまったので最後まで見られなかったのが残念。)ドイツ語圏の中央スイスでは盛大に建国記念日を祝うわけですが、遠く離れたジュネーヴが連邦に加盟したのはナポレオン失脚後の1815年なのでスイスへの愛国心よりは独立都市国家ジュネーヴへの想いが強く、式典の中では一応協定書(抜粋)の4国語での朗読がありましたが、国歌よりもジュネーヴ共和国州(Re'publique et Canton de Gene`ve)の歌(C'e qu'e` laino^)の方が市民に馴染みがあるようでした。今年の式典には、パリ万博に出展したあと行方不明になり、ジュネーヴで見つかったアリアナの鐘こと品川寺(ほんせんじ)の梵鐘の縁で姉妹都市提携している東京都品川区の代表者も出席していたそうです。

 ジュネーヴ大学と宗教改革の碑のあるバスチヨン公園で催された式典は、その後音楽にあわせて花火ショーがあり、ちょっとしたお祭りでした。地方自治と地域のつながりが重要視される連邦国家スイスのこと、この日は都市だけではなく、スイスじゅうの各地区(コミューン)で催し物が開かれ、CERN研究所のあるメイラン Meyrin コミューン(人口2万、住民の国籍は100を越える)での集会は、地域住民の結束を確かめ合う場のようにも見えました。

ジュネーヴ祭 Fe^tes de Gen`eve

 夏のジュネーヴは地元の人の多くが代わる代わるにヴァカンスに行ってしまうのと対照的に世界中からの観光客や避暑に来るアラブの豪商石油王など世界のお金持ちが集まってきて、高級店通りのローヌ通りには大きな宝石をちりばめたうん百万?千万円?しそうな宝飾品や時計がショーウィンドーに飾られています。

 さてそんな夏のジュネーヴで一番のお祭り、8月2日から今日11日までは恒例のジュネーヴ祭が開かれていました。(1日のスイス建国記念日よりずっと盛大なこのイベントを次の日からぶつけてくるあたり、元独立国家かつ現国際都市としての気概を感じさせます。)レマン湖畔は数々の移動式遊園地や屋台などでにぎわっています。日本のように遊園地施設がないヨーロッパでは移動式のものが夏に各地で設営されるのですが、お化け屋敷やゴーカートだけではなく、結構大きな観覧車、小型のジェットコースター、打ち上げ式バンジージャンプ、はたまたぐるぐる回る絶叫マシンなどあったりして、かなり本格的です。屋台はフランクフルトや焼きトウモロコシ、ビールやカクテルのスタンドも多いのですが、そこはさすが国際都市だけあって、様々な国の料理も並んでいます。ちょうど東大の五月祭で留学生が中国や韓国料理の店を出しているのにも似ていますが、国はセイシェル諸島、モーリシャス、セネガルなどと多彩。アジアもベトナム、タイ、中国、日本などなど。

 そんな祭りのハイライトが昨日8月11日の花火大会 Feux d'artifice. Musical Fireworks と銘打っているだけあって、日本の花火とはひと味違い、流れる音楽にあわせて花火が物語を作っていく、そんな総合芸術としての楽しみです。ディズニーランドの花火を思い浮かべてもらえればそれに近いものがあります。三部作で合計1時間ほどだったのですが、間に2回、2分ほど案内が流れて小休止する以外は間髪入れずに花火が打ち上がりっぱなし。これも連綿と織物を紡いでいくように進行する西洋音楽と相通ずるところがあり、間(ま)を大切にする日本の花火や邦楽との対比を感じさせられます。

 私達はこの日の為に持参した浴衣姿で、寒いので中にTシャツや短パンを着込んで出かけ、遅い日暮れにあわせた夜10時からの花火(今年はそれに先駆けて9時過ぎから簡単な花火ショーがあった)を楽しんだのでした。ただし気温は13度。周囲の人が革ジャンを着ている中で、最後に一時雨に濡れながらでありましたが。

 その後遊園地をひやかしながら湖畔を歩き、コロンビアのカクテルとセネガルの料理を食べ、また音楽にあわせて踊っている人々を眺め、あるいは見知らぬ西洋系香港人にキモノについて話しかけられて。踊っているの中には若者だけでなく相当なお年の人もみえ、アップテンポのステップを踏んだり、また曲がバラードになると老若男女が素敵にダンスしている様が印象的でした。

気候

 6月末にはヨーロッパ全土で50年〜100年以来の記録的猛暑(ジュネーヴでも10日連続30度を超え、扇風機すらないなか湿度も高かった)でしたが、それ以来あまり暑くありません。実はこのところ雨ばかりで肌寒いくらいの日が続いていて(最高22度、最低13度とかの毎日です)、長袖を着ている次第。既に葉が紅くなり始めた木を見るにつけ、このまま夏らしい夏が来ないまま秋を迎えてしまうのかと思うとちょっと寂しいくらいです。....

....なんていうと殴られてしまいそうですね。

東京は猛暑が続いているようですが、みなさまどうぞ健康にはお気をつけて。

 長文におつきあいいただき、ありがとうございました。それでは、また。


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