日本語の名前をアルファベットでどう綴るかという問題は、非常に困難な難題になってしまっています。なかでも、外務省が定めたパスポート記載時の翻字規則が長音を一切無視することになっているため、中には非常に苦労されている方もいます。その中に、セキドウさんという方がいらして、ローマ字で Sekido と綴られるためセキドさんと勘違いされて迷惑だという苦い体験談と外務省への抗議の文章をご自分のホームページに掲載されています。私はこの方の憤りに一方で共感しつつも、彼の論点と違った考え方を持っていて、直接メイル差し上げました。残念ながらお返事は頂けなかったのですが、日本語をアルファベットで記述することの難しさを皆さんが考えるきっかけにしてもらえればと思い、ホームページに載せることにしました。なお、2000年4月から、外務省の規則が一部改定され、現在は申し立てをすれば、長音に対して h を添える表記法も選択できるようになったことを付け加えておきます。
関堂様
はじめまして。あなたのホームページを拝見しました。殊に「外務省にもの申す」と題されたページに興味をひかれたのですが、私は少し違った意見を持っていますので、こうしてメイル差し上げた次第です。実はかれこれ1年近く前から気になっていたのですが、しばしメイルする機会を失っていました。
まずは、関堂さんがローマ字表記の外務省規則のためにいかに苦労なさり、またそれを腹立たしく思っていらっしゃるか、その点はよく理解したつもりです。これまでも、飛行機事故などの折りに発表される搭乗者リストがどうみても日本人らしからぬ名前だったりして不可解に思っていたことが、長音の非表記によって説明つくらしいことが分かって、なるほどと納得しました。
私自身は幸いにも(イ列以外の)長音を含まない名前(トリイ ヒロユキ)ですので、あまり気にしたことはなかったのですが、セキドウ コウスケさんがセキド コスケでは確かに文句もいいたくなるというものでしょう。
ただ、だからといって外務省の規則が一概に悪いかというと、私は少し疑問に感じてしまいます。以下に私なりの考えを述べますので、長くなりますが、どうぞおつきあい下さい。
その前にまず考えておかなくてはならないことは、日本人の名前を正確な発音でアルファベット表記するのはそもそも無理な相談だということです。仮名や漢字は日本語の表記に合っていて、仮名で書く限りは読み方は一意に決まりますが、欧米伝来のローマ字では、どうもうまくいかない。というのも、アルファベットを使っている欧米の人々は彼らの母国語の表記に使われている文字の読み方に彼らなりの癖を持っていて、それが必ずしも我々の意図した発音にならないからです。ですから、仮名を1対1対応でローマ字に翻字したところで、それで全てうまくいくわけではありません。
そのときに忘れてならないのは、相手にしているのはなにもアメリカ人やイギリス人など英語を母国語としている人に限らないこと。ドイツ人やフランス人も居れば、はたまた読ませる相手がロシア人やアラビア人かも知れないことを考慮しなくてはなりません。
例を挙げましょう。一番いい例は「チ」の音。これはヘボン式では chi と綴ります。アメリカ人ならまあちゃんと「チ」(あるいは「チャイ」)と読んでくれるでしょう。ところが、フランス人なら自信を持って「シ」と読むでしょうし、ドイツ人なら「ヒ」と読むかもしれません。そしてイタリア人なら「キ」と言うでしょう。ポーランド人なら、喉の奥から「フィ」というような発音をするでしょうね。なぜか。それは ch の綴りが各国語でそれぞれ違った子音を表しているからです。それにしても、こんなことで当の欧米人は困らないのか、というと、それはそれでいいみたいです。世界史の王の名前を見ても分かりますが、チャールズ(英)、シャルル(仏)、カール(独)、カルロス(西)はもともとみんな同じ名前です。綴りは似ていても読み方はかなり異なるのですが、そんなものだと割り切っているわけで、これはさしずめ中国人のワン(王)さんが日本でオウさんと名乗るのと似ています。しかしそれはともかく、chi の読み方が言語によってこんなにバラバラだと、我々にとってはこれはさて困った。これでは日本人の「チアキ」さんをどう綴ればいいか分かったものではない。
そこで日本人の名前を表記するのに、何らかの規則を設ける必要が出てきます。世界中の人にどんな名前もちゃんと発音してもらえる完璧な規則など作れるわけがないので、もとより妥協せねばなりません。その結果が、外務省の採用したヘボン式ローマ字だったのです。
もちろん、解は他にもあったでしょう。たとえば訓令式でもよかったわけで、「チ」の音には ti を当てることになります。「これではティであってチではないではないか」と言うのは英語かぶれした人の言うことであって、あくまでローマ字である以上、それは英語ではなくて日本語なのだから、「日本語のローマ字表記で ti と書いたら『チ』と発音する」と決めてしまえばそれで済む話です。実際、これをロシア人に読ませたらちゃんと「チ」と発音してくれるでしょう。日本語と同様、ロシア語では i 音の前の t は硬口蓋化(軟音化)するからです。「ならば『ティ』の発音はどうしてくれるんだ!」という向きには、「そもそも『ティ』なんて日本語の発音にない(少なくとも人の名前には出てこない)」と言ってしまってもいいし、あるいはもう少し親切心があれば、ワープロの入力法などを参考に thi や txi とするなり、いくらでも方法はあるでしょう。大事なことは、一貫した翻字規則が存在することで、それを外国の人が実際にどう発音するかということとは一応別の問題なのです。綴り字の極端な例が中国語のピンインで、qi を「チ」、xi を「シ」、ri を「ジ」と読ませるなど、かなり大胆な文字使いをしています。
さて、本題に戻りますが、日本人「チアキ」さんはどうすればいいでしょう。彼女がアメリカ大好き少女なら、当然のごとく Chiaki とすればいいでしょうが、もしフランスに憧れてパリで生活する気になったら、「シアキ」と呼ばれたくはないので Tchiaqui とでもしておくのが賢明でしょう。ドイツ人との交流が多いのなら Tschiaki ですが、イタリア留学するなら Ciachi としなくてはなりません。イタリア人の発音は日本人の耳には「チアーキ」と長音が入って聞こえてしまいますが、これを防ぐ手だてはないので我慢しましょう。ロシアで生活するのなら、キリル文字表記はパスポートのラテン文字から翻字されるので、チアキ Тиаки と翻字される為には Tiaki と綴っておく方がベターかもしれません。
さあ、またもや困った。これらの問題に対処しようと思ったら、外務省は十人十色、個人の自由で好きな綴りにしていい、とのお触れを出すことになりますが、それが実現不可能な問題であることは言うまでもないでしょう。
そう、個人の名前は個人のものであるとともに、それを受け入れる社会全体のものでもあるからです。銘々の(それぞれの正当な理由があるにせよ)勝手気ままな書式は公式書類の上では当然許されるわけにはいかないのです。もちろんペンネームや通用に使う分には自由な綴りで構わないのでしょうが。
では、セキドウさんのおっしゃる長音をどうするか。これは実は難問です。そもそも欧米諸言語には長音という概念がないものが多い。アメリカ人に「オハラ」さんと「オオハラ」さんの違いを説明するのは、英語の苦手な日本人にrとlの違いを納得させる以上に難しい問題です。彼らにとって、母音にアクセントがあることと、その音節を強く長く発音することとは同一のことで、切り離し得ない概念だからです。
従って、アメリカ人の前では、私の名前 Hiroyuki Torii はどう頑張ってみたところで「ヒロユーキ トーリー」になってしまいます。関堂さんも、「セキード コゥスーケ」ぐらいになるのではないでしょうか。彼らは長音ということを理解しないのだから、これはどう綴りに知恵を絞ったところでどだい無理な話。むしろ決められたスペルを見せながら一生懸命「セキドウ コウスケ」であることを説明してあげる努力をするか、さもなくばあきらめた方がいいと思います。かりに Sekidou, Kousuke と書いたところで、それは「セキドゥ カウスーク」とでも読まれてしまうだけかもしれないのですから。
# 日本人やイタリア人には信じがたいことかも知れませんが、アメリカ人が綴りを素直にローマ字読みすることは滅多にありません ou と書いてあっても、アウとかウーとか読んでしまう可能性がかなりあります。間違いなくコウスケという母音で発音して欲しければ、Koh-oo-soo-keh とでも書いておかなくてはなりません。ただ、そうすると「コーウースーケー」になってしまいますが。
それから、相手がフランス人だったら、長音を示すどんな努力も無駄です。彼らの言語に長母音は存在しません。あえてやろうとすると、S'ekideaux, Kausouke' (姓の始めのeと名の最後のeの上にアクセント(アクサンテギュ)記号をつける)とでも綴りますか? ちなみに Sekido, Kosuke では「スキド コシュク」 Sekidou, Kousuke だと「スキドゥ クシュク」です。
私も、出張でフランスに滞在することが多かったのですが、Hiroyuki Torii のスペルでは、(hを発音できず、またrが喉の奥のフという音に聞こえる)フランス人の発音では「イホユキ トヒー」というどうしようもない呼ばれ方をしてしまい、初めはどうも違和感があったのですが、慣れればそんなもんか、と考えるようになりました。国際化の為には多少の違和感なぞ捨て去らなくてはやっていけません。頑張って Rilauille-ouqui Tolihi とでも綴れば「ヒロユキ トリイ」に近く発音してもらえるかもしれませんが、それでは誰のことだか全く分からなくなってしまいますから。
ここまで読んでこられて、「いやいや、そんな話はしていない。日本人が日本人の名前を読めないのだ。全日空の航空券の話はどう説明する」とお怒りかもしれませんね。私はこれは全日空の問題だと思います。いかにマイレッジをノースウェストと共有しているとはいえ、あなたの本名を知っているのであれば、ちゃんとした仮名表記、あるいは漢字表記をしない全日空の怠慢に過ぎません。あるいは、ローマ字表記しか分からないのであれば、それをあえて変な仮名表記せずに、あくまでローマ字のまま表示するべきなのです。しかしこうした問題はなにもローマ字にだけ発生するわけではありません。問題の種類は多少異なりますが、漢字と仮名のあいだでもよく起こっていて、関堂さんを「カンドウ」さんと表記したり、逆に「セキドウ」さんを「瀬木同」さんと書いたり(あまりそんな間違いはないと思いますが)、失礼さの度合いからすれば同レベルだと思います。(私もよく「鳥居」でなく「鳥井」と間違えられるが、いちいち文句を言っていてもしかたのないことでしょう。)個人の名前をいかに正確に表記し、正確に発音するか。突き詰めて行けば、渡辺さんの辺の字が何十通りもあるのも同じ延長線上にある問題かもしれません。
もちろん、おっしゃるように外務省の「長音を表記しない」という判断はかなりの問題をはらんでいると私も考えています。なんと言っても一番の問題は、ローマ字からカナ表記に正しく戻すことができないということでしょう。Sekidou なり、Sekidow なり、または Sekidoo なり Sekidoh なり、長音を表記するなんらかの規則を採用していれば問題は明らかに緩和されていたでしょうから、相当の失策です。ただ、それを知っていて(まさか気づかなかったほど外務省の役人が馬鹿だったわけがない)あえて長音無表記を選んだのは、そのほうが外国で(しかも主に米英で)通用しやすいと判断したからだと思います。下手に母音を並べたりhやwを添えたりすれば、時としてとんでもない発音になってしまう可能性が高いからです。もし「長音表記」の姿勢で行くのなら、東京は Toukyou または Tohkyoh としなくてはなりません。実際には、現在の Tokyo の綴りのままで、多くの外国人は(正しい日本語の発音を聞いたことがあるわけではなくても)ちゃんと「トウキョゥ」と発音しています。彼らにとっては「トキョ」と発音することの方がむしろ不自然なのです。
では、人によって長音の表記・非表記を選択できる、という案はどうでしょう。しかしこれも残念ながら、表記の統一性という観点から望ましくはないでしょう。同じ佐藤さんが(しかも場合によっては同じ家族の中で)、個人の好みによって Sato だったり Satou だったり Satoh だったりしては、混乱のもとでしかありません。実際、佐藤さんの多くは Sato の綴りで満足している訳ですから、自由選択制になったとしても、みんなが Satou なり Satoh なりを選ぶとは考えられないからです。しかもいったんこの自由を認めるのなら、ヅを zu とするか dzu とするか(実際に私の知人にヅの文字の入った姓の人が居ます)、あるいは東海林さんが Shoji でなくて Syowzi と書きたいと言い出したり、松田さんが Mazda がいいと言ったり、イタリアに留学するチアキさんが Ciachi にしてくれと言ったり、そうした人の意見も無視できなくなってきて、挙げ句の果てには私の名前ヒロユキが Rilauille-ouqui になったりしてしまいます。あるいは、外国語をもとに付けられた名前の例えば「レイ」さんが、自分は Ray だとか Lei だとか、綴りにこだわるようになるかも知れません。やっぱりこれでは困るし、どこかでけじめを付けなくてはならないでしょう。
外務省の人も、こんなことを延々考えた末に現在の綴りを決めたに違いないはずで、将来の課題だという返答も、そんな苦渋の現れだと私は解釈しています。
最後に、長音記号^を母音の上につけるという案ですが、あれはこと航空券に関する限り、現状ではほとんど無駄な抵抗だと思います。パスポートに書くようにしたところで、現在の航空券システムは英語の26文字のアルファベットと数字以外を区別できるようにはなっていないし、実際名前にアクセント記号がつくフランス人やドイツ人でも記号はすべてとれてしまうか書き換え(uウムラウトをueのように)るかせざるを得ません。ですから、日本人の名に長音記号を付けたとしても、それも同じ運命をたどることになるでしょう。たとえちゃんと表記されたとしても、その記号の意味をちゃんと理解できるのは日本語のローマ字表記法を知っている数少ない外国人だけになります。だって、点々¨ひとつとったって、ドイツ語ではウムラウト(変音記号)、フランス語ではトレマ(分音記号)、ロシア語ではィエーをィヨーに変える記号と、その意味が全然違うわけですから、山形記号^とかあるいは長い棒 ̄とかを付けることの意味も、必ずしもちゃんと理解してもらえるとは限らないのです。(中国人なら「高い声で平たく発声する」意味だと理解するかも知れないし。)ただし、記号が維持できる用途に限れば、長音記号付きのローマ字表記は正しく仮名表記に戻すことができるという点で優れていて、この問題の解決の有力な方法だと言えるでしょう。
ながながと私の意見を述べてみました。所詮は長音を持たない名前の者がいくら論を述べたところで、関堂さんの感じられた屈辱感は拭い去ることができないものかもしれませんが、みんなが納得できる翻字規則を作るのがいかに難しいだろうかということを考えるきっかけになればと思います。いかがお感じになりましたでしょうか。賛否問わず、お返事をお聞かせ頂けたら嬉しく存じます。
それでは。