日本語の「ら行」子音は R か L か?

日本語の「らりるれろ」をアルファベットで綴るときには R で表記します。でもなぜ L ではないのでしょう。日本人は英語の L と R の区別ができない、とよく言われますが、それは日本語に流音が「ら行」子音ひとつしかないからで、しかもそれが英語の L とも R とも違う「弾き音」の発音であることに由来しています。そもそも L と R の違いって何なのでしょうか。ある方からメイルでご質問を頂きました。

はじめまして。「パスポートの氏名翻字規則」についてのご意見拝見いたしました。実は私も名前のローマ字表記に疑問を感じ続けておりました。パスポート取得の際も受付の方のあまりにも無情な対応に憤りを感じながらも「この人に文句をいっても仕方がない」と泣く泣く諦めた経験もあります。「えりさ」は一般的には"Erisa"と記されますよね。でもどうして、"Elisa"は受け入れられないのでしょうか。(アメリカやオーストラリアではこちらの方が自然なのに・・・)日本語の「らりるれろ」は ra ri ru re ro この一通りだけ。 la li lu le lo はだめなんでしょうか。私は日本語の「らりるれろ」は"r" にも"l"にもぴったり当てはめられないと解釈しています。ですからなぜ "r"のみが採用されたのかわからないのです。英語のネイティブに聞いたところ、「あなたの名前は"Erisa"ではなくて"Elisa"よ。」といわれました。確かに私の名前は「えぅりさ」("Erisa")ではないなぁ・・・と思うのです。どちらかといえばやっぱり"Elisa"の方が近いような気がするのです。けれど、この表記はパスポートには使えませんよね。そうすると、あらゆる公式文書にはErisaを使わざるを得ません。「私の名前はElisaだけれど公式にはErisaなの。」と英語のネイティブの友達に説明しようとしてもうまくできなくて、「あなたの名前はどっちなの!」と言われる始末です。私の疑問に対するお答えをいただければ大変たすかります。

 確かに、日本語の「ら行」子音は英語の r とはかなり違った発音ですのでおっしゃるお気持ちごもっともです。言語学に興味があって数カ国語の欧米言語を話せるハンガリー人の同僚に聞いてみたのですが、日本語の「らりるれろ」を発音して聞かせたところ、「これは l とも r とも聞こえる。丁度中間の感じだね。なるほど、日本人が l と r を区別しにくいわけだ」、との返事でした。一般に l と r は発音学上、息がなめらかに流れる子音という意味の「流音」に属しますが、日本語などにはこれが1種類しかないのが混乱のもとなのです。日本語のら行子音は弾き音といって、舌の先を上の歯茎の裏あたりに一回つけて弾く音であって、英語の舌を口腔内に浮かせてどこにもつけず「ぅる」というようなこもった音で発音する歯茎後部接近音の r とはまるで別の音です。これに比べれば、舌面前部を歯茎につけて発音する側面音 l の方が近いとも言えます。でも、英語圏のネーティヴのひとに言わせるとやはり、舌先で弾く「ら行」子音と、舌の側面から空気を逃がして発音する英語などの l とはかなり違っているらしく、日本語のら行は r に近くも聞こえるようです。実際日本人の耳にも、英語の l は日本語ら行より硬く聞こえるように思います。

 ただ、ここで英語ばかりを議論していても問題の本質はつかめません。一般に音声学で r と言ったときにはそれが様々な言語の中に多種多様存在するのであって、英語の r はその一つに、しかもかなり特殊な変種にすぎないのです。 r の王道はスペイン語やイタリア語、ロシア語などの歯茎顫動音、いわゆる巻き舌だろうと思います。「ルルルル」と舌先が歯茎後部についたり離れたり高速に振動する「べらんめえのr」です。日本語の弾き音 r はこの振動が1回のものだと捉えてもいいでしょう。スペイン語には弾き音と顫動音の両方があって区別されています。(語表記上、つまり綴りの上ではそれぞれ r と rr に対応する。)ドイツ語では地域によってこの歯茎顫動音の r の他に、口蓋垂顫動音、つまりのどひこを震わせる「グルルル」と聞こえる音で発音されたりします。日本人には極めて難しい発音でしょう。更にフランス語ではこの喉彦震え音がかすれて口蓋垂摩擦音として発音されることが多く、特に「パリのr」と呼ばれる無声音は「パリ」が「パヒ」とか「パキ」とかに聞こえるほどです。ただし、ドイツ語もフランス語も元々は(というか、ラテン語がそうだったからとも言えるでしょうが)巻き舌だったようで、現在でも舞台発音といって、客席によく聞こえるように発音する必要があるオペラや声楽曲、劇などでは巻き舌(歯茎顫動音)を使うことが多いようです。

さて、これらが全部 r の仲間として分類されているのですから、r という音はかなり幅広く多種多様にわたることがお分かりでしょう。実際、国際音声記号(IPA, International Phonetic Alphabet;いわゆる発音記号)での厳密表記では r は細かく(「バリのr」を含めると)8種類に分類されていて、r や R の文字を180度ひっくり返したり足の部分を丸めたりして作られた様々な記号が並んでいます。更には中国語の「日本(ジーペンと発音;ピンイン表記 riben)」の「ジ」やチェコ語の「ドボルザーク Dvor~ak」(r~ は r の上に∨のような記号を付加したもの)の「ルザ」と書かれた部分、これは反り舌摩擦音に分類されるので発音記号は s とか z に足をつけた形ですが、単語の綴りの上では、流音的性格があるためか r で綴られます。こう考えてくると r で示される発音の範疇はとても広義だといえます。

 これに対して l の方は、こちらも変種がいくつかあるのですが、r の多様さに比べればずっと少なく、実質上1種類の音だと思っていて構わないでしょう。

 さて、ここでもう一度日本語の r である弾き音について考えておくと、これは、舌先が硬口蓋に向かって少し反った形で歯茎の後部に軽く接触し、歯茎をこするように軽く弾いて出す有声の音である、と言えます。この調音の仕方の類似性から日本語のダ行音やナ行音としばしば聞き違えることがあることは日本人なら誰しも経験していることでしょうが、英語の r やイタリア語の r は d あるいは n とはかなり異った音です。またフランス語の r なら喉の奥からハ行かカ行を発音しているようにも日本人には聞こえますが(実際、私「とりいひろゆき」は現地でイホユキトヒーと呼ばれている)日本語の r はハ行やカ行とは似ても似つかぬ音です。

 では日本語の「ら行子音」をローマ字で表記するときはどう表記すればいいのか。 l か r かどちらかでしょうが、スペイン語の r の発音と同じであることを考えても、r に軍配が挙がるのでしょうね。鉄砲伝来以来日本を訪れた欧米人も日本語のら行は r を用いて表記しているようですし、彼ら多くの人の耳には l ではなくて大抵は r に聞こえるらしいのです。そもそもが特殊な r の発音をもっているアメリカ人の耳には、日本人の発音次第では l に聞こえることもあるでしょうが、それも続く母音にも依存し、例えば「り」は li に近く、「る」は ru に近いというふうに揺れがあると思います。

 で、結局明治以来の日本語ローマ字表記は「ら行」を r で表すことになり、この点ではヘボン式、日本式、訓令式のどれをとっても一致しています。外務省のパスポート表記もこれに倣っており、その意味では r の選択は正当なものだと私は思います。もちろん l を使用したいという名前の方も少なからずいるのでしょうが、混乱を避けるために「同じ発音には1種類の表記しか認めない」という原則を貫くのなら残念ながら l は落選し、使うことができない、ということになるのだと思います。もし r でも l でも個人が好きに選べるのだとすると、長音の表記のところで述べたのと同じ混乱が予想されるからです。長音の方は最近 oh のように h を付加する表記も登録により認められるようになりましたが、これは相当の苦情や意見を受けてのことだろうと思います。外務省としては原則を変えたくなかったが、仕方なく例外を認め、ただし外国での起こりうるトラブルにいちいち対応できないので自己責任で特別表記を選択してくれ、という姿勢だと思います。一度決めた綴り字は生涯変更しないようにと言っていますし、名字なら家族全員同じ表記が望ましいとも書いてあります。名前が個人だけのものではない以上、私も基本的にこの原則に賛成しています。

いやあ、本当のところ私自身、フランスに滞在するときなどは Riloyouki Tolii とでも綴ればヒロユキ=トリイとかそれなりに正しくよんでもらえると思うのですが、こればかりは仕方ないし、行く先の国によって自分の名前の綴りを変えているわけにもいかないですから。外国に行くときは慣れが肝心です。

# 中国に行けば鳥居は「ニャオチュー」(日本語の音読み「チョウキョ」にかろうじて似ている)と呼ばれることでしょう。私は犬年(戌)なのですが、これでは鳥だか猫だかネズミだか、ずいぶんとにぎやかなこと。中国人が日本人の名前をちゃんと読まないからって怒ってはいけません。日本人だってマオツートン(毛沢東)のことをモウタクトウと読んでいるのですから。これに対して韓国との間では相互に正しい発音に近く読もうという合意がなされたようで、ソウル五輪の前後からだったか、ニュースでもあちらの方の名前が原語読みのカタカナになりました。

 国際化にはこうしたことを柔軟に寛容に受け入れる姿勢が必要なのかもしれません。



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リンク先: IPA (The International Phonetic Alphabet) by IPA (The International Phonetic Association)



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