氏名翻字と漢字のこだわり

 日本語の氏名をアルファベットでどう綴るかという問題についてもう少し考えて見ましょう。

ローマ字表記については、私は外務省の統一性をもたせる方法が、最善とはいえなくも最も無難な方法と考えております。そもそも日本語をローマ字表記ですべての外国人に正確につたえられるという幻想があるからこそ議論が生じるわけですね。

 たしかにそうですね。またそもそも、名前は誰のものかという認識ともからんでくると思います。

 関連する話題としてまず漢字の話から始めますが、日本人は漢字の形にこだわり、たとえば渡辺さんの辺の字がある市役所で調べたら50通りもあって全部フォントを作った、などという話がありますが、あれも個人のこだわりがあってのことでしょう。本場中国などでは1文字=1単語という意識や、1文字1発音なので意符+音符という形声の手法が意識されてむしろ符号としての文字という考え方が強いのか、あるいは古くからの異字体を整理整頓することに成功したからか、文字の形にはあまりこだわらないようで、会意字の筆という字の下半分は毛にしたほうが画数が減らせるといって変更したし、形声字の声符も大幅に簡略化したし、時代が経って発音が変わってしまった字は声符も変更したとか、癌という文字なんか、まだ国民の大多数が読み方を知らないうちにこっそり辞書の発音を変更してしまって後々の同音意義語を回避した、など、国家主導で非常に合理的な文字政策を取っています。一画ごとの微妙な違いにこだわって何種類もの異字体を Unicode に取り込むべきだと主張した日韓代表に対して、米側意見に賛同した中国代表は基本的な考え方が違っていたようです。

 さて、日本では、これは国語審議会が表外文字に最近まで全く言及しなかったこととか、その間に工業技術院が独自の判断でJISコードを採用し(ておまけにその後で安易に表掲字体を変更し)たりするなど、一貫した文字政策が欠如していたことも問題なのですが、文字の使用を国民の自由に任せていたところがあって、また明治以来国民の識字率が高かったのが災いしてか、個人が文字にとてもこだわるようになってしまった。筆やペンで文字を書いていた時代はまだよかったのですが、活字が主流になり、機械で文字を打つようになって物事がデジタル化してくると、異字体の問題が避けて通れなくなる。そのとき、一般の日本人は、漢字の歴史などたいして知りもせず、異字体の理解も不十分なままに、自分の馴れ親しんだ字体だけが正統だと思い込んでしまった(私自身最近勉強してようやっと分かりかけてきたところですが)。

# その対照として、かなは明治の初めまでに整理されたので、皆が正統の仮名を習得した結果、そして変体仮名の活字新聞が作られなかったため、現在において変体仮名にこだわる、という人はほとんど見かけないどころか、そもそも書道をやる人を除いて、変体仮名すら知らない人が多い。ひところ流行った丸文字のことかと思っていた当時の大学生もいたようで。

だから葛飾区の葛とか、鴎外の鴎の字とか、はたまた吉野屋の吉の字とか、梯子高の高の字とか、そんな地名や人名がなかったらさほど問題にならなかったようなことまでもがクローズアップされて問題のやり玉にあげられるわけです。「うちの」葛飾区の葛の字はヒでは困る、とか「私」の苗字は梯子高です、とか言って地元や個人が頑張るわけ。で、それを表現の自由だと言い出すと、「金を失う」のを嫌った国鉄が「金の矢」と書こうとして小学校の国語の先生から問題視され、過去の中国の古典に用例があると頑張りつつも小学生が混乱しないようにするためにロゴだけの使用に留める、なんて話もありました。

 それで、話をローマ字に戻しますと、やっぱりここにもその名前をもった個人が、自分の名前をどう表記したいかというこだわりが現れてくるのだと思います。鳥居と鳥井の違いはローマ字で表しようはないが、佐藤とサトは別である、まして小原と大原は別であると。もちろんカナ書きすれば別なのですが、(小原と大原の意味の違いに関しては論外。ならば鳥居と鳥井はどうしてくれよう)日本人は世界の万人にとってサトウ(サトオ・サトー)とサトとは別のはずだという幻想をもっている。でもちがうんですよね。アメリカ人なんかにとってはどちらもほとんど気にもならない(あるいは区別できない)微妙な違いでしかありえない。LとRを混同したり、BとVをいっしょくたにしてしまう神経に比べれば、サトーとサトの違いなど微々たるものだと。

 日本人の間では必ず同じ(だと信じている(注*))発音が再現できるカナというシステムをなまじ持っている為に、そしてローマ字をよく使うわりに外国語を知らず(せいぜいできて英語程度)外国の人とナマで話した経験が圧倒的に少ないという特殊な鎖国的国際社会にいるために、日本人には日本語をローマ字表記で全ての外国人に正確につたえられるという幻想が強いのでしょうね。同じ(表音文字の)アルファベットを使いながら、言語が違えば全く別の発音になってしまうということを日常茶飯事で体験しているヨーロッパの人などではそうした考え違いは少ないのかもしれません。

#(注*) 本当は違うんですよね。例えば「浅草」と言ったとき、東京の人は Asaksa に近い発音をしている、ウの母音はほとんど発音されません。でも京都の人なら Asakusa アサクゥサと発音するでしょう。

 そこへもって日本のどの委員会も研究会も、正統な日本語のローマ字翻字規則をまとめあげることができなかった。訓令式やヘボン式が一本化されずに混乱を極め、さらに悪いことに長音記号(マクロン(上付きの棒)やアクサンシルコンフレックス(山型記号))が使えない環境での対処法を、数通りあるカナでの長音表記から類推していろんな書き方が考案されたものだから、結果として漢字と同じような混沌状態に陥ってしまって、未だに議論が絶えないのだと思います。

たとえば文献検索を氏名でするとき、たとえば太田一郎さんがどんな論文を書いているか調べたいときに、....(中略)..... 計算上は18人の太田一郎さんが出現します。そもそも日本語をローマ字表記ですべての外国人に正確につたえられるという幻想があるからこそ議論が生じるわけですね。大学教授をやっているくらいの人でもこの点の勘違いをしている人がおり、「じんぼう」という苗字なのですが、論文ではJimbowと書いているのをみてひっくりかえりそうになったことがあります。もちろんパスポートにはZinboと書いてあるのでしょうが。

 論文に関しては、私はむしろペンネームだと考えています。私自身は論文はつねに英語で書くもの、という意識なので、日本語のカナ書きの名前と1対1対応しなくってもいいという気さえします。それで私自身は(自分で勝手に選んだ)ミドルネームを常に入れていますが、人の論文については日本語の名前からローマ字表記を類推して検索する機会もほとんどないので困った事はあまりありません。極端な話、知事の名前が横山ノックという芸名でいいのなら、英語の世界での論文名の鳥居が Torry とか Charlie とかでもいいと考えているくらいなわけでして。(ただしその分野の世界では常にそう名乗る必要はあります。そうすると外国に招聘されたときにパスポートで問題が生じ易くなったりしますけど。)ただし、これも名前は個人の物、という考えの延長なので、本当に検索したい人が困るような状態に陥っている(漢字の場合でも眞か真かなどで困るケースがあって似ていますよね)ことを考えればゆゆしき事態といえるでしょう。

# ちなみに、パスポート表記は外務省の担当で、ヘボン式をベースにしていますので、じんぼうさんなら Jimbo となるはずです。(文部省とか国語審議会の担当だったら Zinbo だったかもしれません。)

 いっそのこと漢字もかなも廃止して日本語をローマ字表記にしてしまったら混乱がなくなる、なんて革新的なローマ字論者も昔のひところは流行っていたそうですが、まさかそれをしたら日本語は同音意義語だらけになるなど、根底からゆるいでしまいますからね。(その前にどういう正書法にするかで もめるだろうし、一刻を争うこのIT時代にそんな議論と混乱をやっていたらたちまちにして国は亡びよう)(だいいち、一画にこだわる日本人が、漢字の廃止なんておいそれと賛同するはずがないか。)



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