「じゃないですか」の自己主張

鳥居寛之 (平成6年6月稿)
「日本語論」現在廃刊 1994年10月号(山本書房)投稿論文

 近頃どうも気になるのだが、「〜じゃないですか」という言い方をよく耳にする。昨年の夏頃まではほとんど聞いた記憶がなく、冬になって民放のテレビでよく話されるのようになったのがどうも耳についたものだから、おそらく最近になって広まった一種の流行語だと思う。マスコミの影響力ときたらたいしたもので、今ではこの言葉もすっかり市民権を得て、いまやちまたでよく聞くようになった。

 この言葉が気になりだしてから意識して、テレビに出てくる人たち、そのなかで街頭インタビューに答える人々、そして私の周りの友人などの話し方を注意して聞いているのだが、この言い回しは本当に頻繁に耳にする。「渋谷に○○っていう店があるじゃないですか。」「一人暮らしをしていると、どうしても外食が多くなるじゃないですか。」「最近の若い人達の会話は内容が乏しいって、よく言われるじゃないですか。」何でもかんでも「じゃないですか」なのだが、誰も自分が流行りの言葉を口にしているなどとはてんで気づいていないようであった。

 いわゆる流行語ならみんなそう意識して喋るだろうし、なかでも大衆にウケて会話にのぼったものは新語として賞をもらったりするのだが、この言葉は少し違う。まず名詞や形容詞などのような単語ではなく、文末の語尾表現にすぎないこと。そしてそれ自身は前からある表現で、いわゆる新語ではないこと。かなり昔になるが、「じゃ、あーりませんか」という、非常によく似た言葉が流行した。このときは上方のお笑い芸人が専売特許のギャグに使ったのがもとで広まったのだが、今回はそれもない。結局、誰も流行語だと気づかないうちに使っているのである。

 いわゆる日本人の話し方で最も特徴的だと思うのは、自己主張しないことだと思う。何か言いたいことがあったとしても「何々だ」とか「私はこう思います」と断定することはむしろ稀で、たとえば友達同士の打ち解けた会話では、「何々だろう?」とか「だよね」とか「じゃない?」といった言い方をする。困ったことに日本語というものはTPOに応じて言い方を変えなければならないので、改まった場面では代わりに「でしょう?」「ですよね」「ではありませんか?」と言い直さなくてはならない。しかしいずれにせよ、常に相手の反応を確認しながら、或いは判断を相手に委ねながら会話が進んで行くことに変わりはない。和を重んじる日本の社会では、自分の意見を強く掲げる一匹狼は孤立し、付和雷同でもいいから周りの意見に同調する性格が求められる。よく会話はキャッチボールだと言われるが、自己主張しない日本人の会話はむしろ、ひとつのシャボン玉をみんなで吹き合いながら飛ばしていると表現した方がいいかもしれない。当のシャボン玉は間に立って角が立たないような妥協点を探しながらさまよって行くのである。何か決定をする時など、こうすることによって責任の所在は不明となるし、「みんなの」意見をなんとなくまとめるのには都合がよい。

 「じゃないですか」――丁寧に言いたければ「でしょう」と言えば確かにそれで済む。けれどもこの言葉は親しい間がらで頻繁に用いられるため、敬語だという認識が弱まってしまった。それに、自分の意見を相手に押しつけてしまうきらいがあるので、使うのに若干の勇気が要る。そこで替って登場してきたのが「じゃないですか」なのである。

 こう書くと、皆さんから「そんな言葉はずっと昔から使ってるぞ」と言う声が聞こえてきそうである。いかにもその通り。けれども、以前にはその用法はもっぱら疑問文(?)或いは感嘆文(!)に限られていた。平叙文で、何の特別な抑揚(イントネーション)も際立った意味もなく、頻繁に使われるようになったのはここ一年以内のことだと思う。言葉というものは面白いもので、抑揚が違うだけで新鮮な感じを受けるものである。そしてその新しい語感が人々の表現したいニュアンスにマッチした時、「じゃないですか」は人々の心を捕らえ、流行るようになった。

 しかしこう頻繁に「じゃないですか」と言われては、「そんなこと知らんわい、勝手に決めるな!」と怒鳴りたくなる人もいるだろう。そもそもこの言い方は典型的な反語表現であり、「そうに決まってるでしょう」という話し手の強い主観が含まれているので、言われる方にしてみれば、時としてかなりきつい印象を受けるのである。しかし喋っている当の本人達にしてみれば「勝手に決めた」というニュアンスはあまり感じていない。むしろ文字づらだけ見ると、あえて否定文にしたうえに疑問文になっているので、婉曲的な表現だと感じている人も中には居るかもしれない。あえて「決めた」と言われれば、それは自分がそう決めたんじゃない、世の中一般にそういう話があるじゃないですか、そんな意味合いの言葉として使っているのである。この言葉が世の中の流行の話をするときに好んで使われることも、そういう意識と関係しているのかもしれない。

 最近の日本語(特に若者言葉)を観察していると、二つの流れがあることに気づく。一つは言葉の曖昧化。若い人は、「何々したりとか」とか「何々みたいな」のような曖昧な言葉を使ったりするが、かと言ってそれを批判する年配の人が「それはちょっと違うんじゃないかと思うんですけど」のような言い方をしないかというと、そうでもない。これは相手に悪い印象を与えないためのソフトな日本人の知恵とも言えるだろうが、欧米との競争が激しい自然科学の分野ですら、学会の登壇者がことあるごとに「なのではないか、と、考えていいと思います。」などともって廻った言い方をしているのを聞くと、日本人もこれからはもっと自己主張した方がいいのではないか、と心配になってくる。

 もう一つは過激表現と冗長表現の日常化。「超格安、激辛、爆睡、ど迫力」という単語は、強烈なインパクトを与え、相手を引き付けるために登場したが、いまや氾濫しすぎたためにその勢いを失ってしまった。一方、若い女性がよくやる「それでェ、あれがァ、もっとォ」式の間延びした長母音も相手の注意を引くために伸ばすのである。簡潔に「それで、あれが、もっと」でいいではないか、と思う人も、自分の会話を意識してみると「それでね、あれがね、」もしくは「それでですね、あれがですね」のような冗長表現を多用していることに気づく。周りがそう喋っているのを聞き続けていると、却って簡潔な言葉が淡白で味気無く聞こえてくるために、知らないうちに自分でも使っている。案外影響されやすいものである。

 さて、主題である「じゃないですか」を思い出すと、実に今述べた二つの流れの、どちらにも当てはまるのである。わざわざ否定疑問文にして判断を相手に委ねているのだと捉えれば、前者の曖昧化。もともとこの言葉の持っていた「勝手に決め付けるような」強いインパクトが薄れ、単なる冗長表現になりつつある点は後者に属する。「自己主張」と言う言葉を使えば、主張したいから使われるとも、主張を避けるために使われるともいえる。まったくもって不思議な表現である。

 この前漫画雑誌を読んでいたら、その中にアイドルの対談があった。「好きな人がいなくて、困ってるんですよー。やっぱり、ドキドキしたいじゃないですか。……。」ドキドキするような恋がしてみたいのは自分なんだけど「したいです」とはっきり言っちゃうのは恥ずかしい。それであなたもそう思うでしょ、年ごろの女の子はみんなそう思うもんね、と言いたい。そんな控え目な自己主張にぴったり合うのが「じゃないですか」なのであろう。

 若者のライフスタイルがどんどん欧米化している(ように見える)ことは今更言うまでもない。しかし彼らの日本語は、言葉で自己主張しようとしているにも拘らず、ますます婉曲的な言い回しになってしまって、西欧語のストレートな表現とはまるで逆の方向を指向しているのである。なんともおもしろいじゃないですか。


元原稿全文を読む(オリジナル原稿は更に文法的な考察も含む)



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