「第三期」という時代

(執筆 96年1月)      
白ばら会現役長老、91年コンマス兼ベースパトリ 鳥居 寛之

 私が白ばらに入った平成元年、まだ何も分からぬままクマさんの口から聞いた「第三期宣言」。そして50周年の節目を迎え、定演パンフにクマさんが書いたパワーの時代への幕開け。参加できなくて残念と思っていたコンマス対談もほどんど人が集まらなかったと聞くや、白ばらで7年をすごした現役長老として、また過去の技術会経験者として、その間の白ばらの音楽的変遷を是非とも文書にしたいと思い立ったわけである。「第三期」とはそもそもいったい何だったのか。自身の白ばら人生を回想しつつ、それを探っていくことにしよう。ただしあくまで私の主観的な意見を述べるものであるから、間違った解釈があってもご容赦願いたい。

 白ばらの以前の歴史については私は直接知らないが、クマさんが19年前に白ばらの常任指揮者となり、はじめは「ゲリラ戦」と呼ばれる時代であった。個性とエネルギーを重視し、毎回の練習はまず運動着に着替えての体力作りから始まったという。その次が「正規軍」時代。それがどういう意味を持つのかは私なぞまるで知るよしもないが、はっきりとした声量のある声を出し、それを頭で考えて歌うといったような方針だったのだろうか。そしてこの時期の「息を出して声帯が鳴り始めるのを確かめる」という考え方はやがて発展し、第三期を迎えることとなる。「第三期宣言」について、クマさん自身は当時の会誌「'89ばらの木」の座談会の中で次のように述べている。

「一時期人数が減り100を切るかも知れなかったときに、とても前までのようにパワーだけでいけるとは思えないと感じていたのね。もっと、響きであるとか、別の面で音楽をつくっていかないとどうしようもないと。息の流れだとかをもっと大事にして歌ってかないと、何か変わっていかなきゃいけない、と。」

「今の白ばら会見てるとね、声そのものから考えてみると、普段の話し声がすごく悪いのね。そうしたことの積み重ねがなんか違うはずだと。もっと根本的なところから声ってものとか音楽ってものとか、生きるというところから含めて見直すというか、そういう契機みたいなものでもいいし」

「うまい具合にみんながその過程って言うか方式みたいなものを本当に理解してやってくれたならば、合唱というか、音楽そのものの捉え方が変わる、そう言ったところまで足を踏み入れてみたい」

こうして新たな路線を模索することとなったのである。

 第三期では、歌も日常の会話の延長だととらえる。歌だからといって特別に構えることなしに自然に息を流し、声帯を合わせ、ひびきを見つめる。そして言葉を整理して母音と子音とを正しく発音し、また歌詞の意味をふまえた上でフレージングを考え、音楽を「感じる」ことが重要なポイントとなる。こうした、「自然な息の流れ・ベクトル・ひびき・声帯を合わせる」などは典型的なキーワードであろう。また平常呼吸の呼とか 1/f ゆらぎといった言葉も聞かれた。

 練習は、まず体をほぐす体操から始まる。そして息出し。お腹を支えて s ----- などとやる。腰から上の力を一気に抜いて上半身をばたんと倒した後、息を吐きながら下の方から起きあがってくる脱力体操、あれは気持ちいい。次に声帯馴らし。高音のファルセットで a e a e a---/u〜i〜---/ho, ho, ho, ho, ho --- などと歌うのは薄く伸ばした声帯を「微妙に」合わせる訓練。声帯自身(内筋)に力を入れてはいけない。喉は「力まずらく〜に」してやって、軟骨の間に張られた膜を、あくまで周りから引っ張ってやることが肝要。たまには力を抜いて低音を歌い、声帯を休ませてやることも大切だ。こうした発声練習のメニューは第三期になって確立したようで、基本的なパターンはこの7年間を通じて全くといっていいほど変化していない。声のファルセット的成分をうまく訓練してやって、それを地声成分とうまく混ぜ合わせてやることで声帯を合わせ、ひびきを捉えることが、根底にある練習目的である。

 「自然な息の流れ」とは何だろう。我々が普段話しているとき、肺から送られてきた息(呼気)は絶えずよどみなく流れ続けている。それがいざ歌う段になると身構えて息が止まってしまうのではいけない。安定した腹筋と下半身に支えられた自然な息の流れは声帯を鳴らし、それが声道を通って声となる。ここで母音なら息はストレートにでてくる。それに対して子音とは声道内で息が遮られたり狭められたりしてでてくる音である。

 ただしここで注意を要するのは、息は舌などの調音器官によって「遮られる」のであって、決して「止められる」ものであってはならない点である。クマさんも著書「誰にでもできる発声法」で書かれているように、日本語を母語とする我々は、特に長音・促音・撥音を喉で調音し息を止める結果となりがちなので、合唱をやる以上は(外国曲では特に)普段の自分の不自然な息ではなく、むしろ西欧語での息の流れを念頭に置く必要があるかもしれない。こう考えてくると、嘗て日本の合唱界で正当派であった「子音をことさらに立てる」歌い方よりも「自然な息の中で必要十分な調音をする」考え方の方がより合理的であると思えるのである。

 さて第三期、殊にその前半期の基礎編の頃は、発声練習の主眼はひたすら母音に置かれた。一番おおもととなるストレートな息を団員に体得させるためである。発声練習では a--e--i--o--u---/i e a o u ---などが典型的だ。ただし前者は近年 a--e--i--u--o--- に変わった。口の形の連続性を意識してだろう。クマさんはよく黒板を使って、絵を描いて息の流れを説明したものだ。ご自分のお腹を触らせて腹式呼吸を体感させたこともあった。あるいは春合宿でビデオを見せて呼吸と発声の仕組みを解説したこともある。また、一年に一回しか順番の回ってこない個人のヴォイストレーニングをやめて、クマさんが積極的にパト練を回りみんなの前で一人づつ歌わせるようになった。しかしクマさんの言わんとすることをすぐにみんなが理解したわけでは決してなく、それには実に数年を要した。その間には団員の戸惑いや、クマさんの抽象的なキーワードに対して分かりにくいという批判も聞かれたし、「感じて」歌う代わりに何でも「感じで」歌っていいものと思いこむ誤解も見られたように思う。母音を重視するあまり、子音をいつどこで入れるかということは疎かになりがちで、音の切りはほんとバラバラであった。しかし第三期も熟して応用編に入る頃にはそうしたキーワードの持つ意味も、何とはなしにかも知れぬが団員の多くに浸透し、母音以外のことにもようやく手が回るようになってきた。

 ところで、音楽の中でも器楽曲などと違って、歌は「歌詞」を持っている。「ことば」がある以上、それに自然な形で音符がついているはずであって、ゆえに言葉の意味を考えてフレーズを歌うことが重要になる。歌詞の意味を楽譜に書き込んだり、もっと細かく、発音やアクセントの練習をしたりするのも言葉をより正しくとらえて歌うために欠かせない作業である、ということでこれには本当に多くの時間と労力を裂いて練習したものだ。音楽と言葉と、息と声帯とが一体となり、後はそれを頭で感じとって、ひとつの曲を作り上げていくのである。

 話はとぶが、白ばらの選曲はある意味で特殊である。学生が曲を選び、指揮者には相談せずに、総会で決まった後に初めてクマさんのところに持っていって打診する、というか報告する、そういう要素があるために、毎年どうも釈然としないところが残る。もちろん学生が主体となってやりたい曲を決められることはとても良いことだと思うが、常任の扱いをどうするかについてはいつも議論のあるところだった。選曲会議のやり方も年ごとに少しづつ異なったもので、どうやって決めたか分からない会議の参加メンバーが選んだり、技術会が決めたり、総会で投票したりと、いずれにせよ曲に強い思い入れを持って積極的に推薦する人と「よくわからない」人との差が大きいのは仕方ないことなのだろうか。

 常任とのコミュニケーションのことで言うと、クマさんが白ばらにいらしたばかりの頃は、毎週リドで一緒に飲み交わしていたという(みんなよくお金が続いたものですねえ)。しかし今や先生も二児の父。学生との年代差も広がり、クマさんと飲む機会も減った。先生と生徒という図式になり、対話がどうも少ない気がする。現役の皆さんはこの点は是非とも気をつけていただきたい。これは91年に5・26事件を招いた当時のコンマスとしての反省の言葉であります(リドの天井はどうなっただろうか)。

 それはともかくとして、白ばらはマイナーな曲を非常に好む。他ではやらないような曲を探してきて、それがまた選曲でよく通る。私が入るちょっと前は、東欧の曲をよく演奏していたようだ。男性と女性で別の発音表が配られたこともあるとか。私にとって初めての30回の定演ではオペラ合唱曲ステージもやった。当時人見記念講堂でオケ伴奏曲を演奏するのは最早当たり前になっていた。しかし我々の幹部時代になって、白ばらにひとつの転換期が訪れた。32回定演ではメインの二重合唱ミサに加え、八声のテ・デウム、それに少人数のグループ演奏で練習に苦労したヒンデミットと、邦人曲以外はみなア・カペラ。五月祭は改修なった安田講堂で歌えたものの、人見が取れず悔しい思いをしたのもこの年であった。翌年のメインはオケ伴だったが、次の年は無伴奏。その93年には初めての委嘱初演を成功させた。以来オーケストラとは決別し、ひたすら声による声のための可能性を追究しているが、これも第三期が応用編に突入して、当然進むべき方向性だったのかも知れない。

 もう一つ白ばらの転換点といえば、コンマスステージであろうか。31回の定演で初めてクマさんの手を離れた音楽を創った後にも賛否両論あったものの、いまではすっかり定着した。そもそも学指揮ステージはどの団体でもやっていることではあるが、白ばらではクマさんにおんぶにだっこしてきた経緯もあり、先生に全ステージ面倒を見てもらいたいという意見が多かったのである。しかしそのために団員の受け身性が指摘されてきたのも事実である。我々自信が歌い手であり、アマチュアではあるが音楽家である以上、一人一人がもっと積極的に楽譜を読み、音楽を表現する必要がある。すなわち,コンマスステージも、また一人づつみんなの前で歌わせる練習も、オーケストラに頼ることのできない多声のア・カペラも、結局は個人個人の歌う力を養うのに必要な方向づけなのだと私は理解している。

 こうした流れが功を奏したのか、ここ数年で確かに歌う力が向上してきている。本番に強いと言われる白ばらであるが、定演当日に120% の実力を出し切るその底力を差し引いても、この7年で本当にうまくなったと思う。内部でよく聞かれた「音が低い」とか「やっぱり下手だ」などといった後ろ向きの批判的態度も影を潜め、「やっぱり夜の歌が一番よかった」というアンケート用紙も減り、確実にレベルアップしてきている。そろそろ第三期は卒業だろうか。

 いやいや、卒業などというにはまだ甘かろう。例えば昨年の春合宿では(私の知る限り)初めてクマさんが子音について(それをどう処理するかについて具体的に)踏み込んだ発言をして、またビデオを見せてもらって口を揃えるとか、それまで一点張りだった母音を卒業して次のステップか、と私は独りでわくわくしたものだが、これはいまいち効果が挙がらないまま終わってしまった。まだまだ課題はたくさん残されている。だがまあ、ここでひとまず一息つくべき時なのかもしれない。

 クマさんの音楽は絶えず変わり続けている。そこには終着点など存在しない。毎年の定演の練習が本番当日まで変わり続けるのもそうであるし、また年を追うごとに目指す音楽が変わってきているのも事実だ。常に発展途上を続ける、芸術に終わりはないのだ。

 これからはパワーの時代が始まる。第三期を離れ、今一度、もっと肉の詰まった声が欲しくなってきたとクマさんは言う。これから白ばらの音楽がどう変わっていくのか、ますます楽しみになってきた。



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