なまいき  鳥居 寛之 (相関基礎科学系・物理学)  私にとって未知の世界ほど心惹かれるものはない。 発見する喜び、見知らぬ文化との出会いは、保守的な 私を大胆な冒険へと誘ってくれる。  大学院時代は反陽子ヘリウム原子という特異な原子 のレーザー分光実験に携わった。なにせ反陽子などと いう反粒子を質のいいビームとして供給してくれるの は世界中でCERN研究所ただ一カ所であったから、 私にとってはラッキーなことに、研究はジュネーヴに 毎年数カ月滞在して行うのであった。ドイツ人らとの 共同実験はいい経験になった。加速器実験にしては少 人数のグループで、概ねよいチームワークだったが、 時には基本的な考え方の違いから大喧嘩をしたことも ある。自分の主張ははっきり言わなければ負けてしま う、という世界の常識を肌で感じた。  髭を伸ばすこともこのとき覚えた。確かに生え際は みっともないのだが、一ヶ月もすれば立派に(?)生 え揃った。なにせ日本人は童顔だから、フランス人に などすぐなめられてしまって、何か仕事を頼んでもま るで知らん顔である。容貌や身なりというものは、昔 の階級社会の伝統が垣間みえる西欧社会では人を判断 する重要な要素であって、研究所の職員相手でも街の レストランに入っても、たとえば髭ひとつでまるで応 対が違うのだ。少しばかりのフランス語でも話せば尚 更で、途端にgarconからmonsieurに昇格した気分にな れる。さて日本に帰ってきて、友人の反応は多様だっ た。仲のいい多くの者は、まさかあいつがと驚き、奇 異の目を向ける。しかし、一部の、おそらくそれまで 私にあまり関心がなかったちょっと変わった人達が、 とても似合うと言って近づいてきた。これは面白い。 容姿ひとつで人の印象はこうも変わってしまうのか。  見知らぬ国に滞在する好機を利用して休みの日には 鉄道に乗ってあちこちを旅した。異境の一人旅は多く の発見がある。生憎私は本を読まない質なので、自分 の目で見、耳で聞くという方法が一番手っ取り早い。 語学好きの私であるから、片言でもその土地のことば を話す努力をした。するとコミュニケーションは俄然 楽しくなってくる。ことばを知ることは文化を知る第 一歩なのだから。  街を歩き、そこに住む人々の生の息吹を感じること に、私は言い知れぬ快感を覚えた。とりわけ、音楽好 きの私にとってヨーロッパは格好の街だった。道端で 若い音楽家の卵が音を奏で、道行く人が小銭を投げ入 れる、何気ない風景。劇場に行けば安い値段でオペラ が見られたし、教会で聴いた合唱は至高の安らぎを与 えてくれた。大道芸人がそっぽを向かれ、けたたまし く列車のベルの鳴るこの国に比べるべくもないが、日 常生活には芸術の薫りが溢れ、文化にゆとりが感じら れる。  生意気を言うつもりはないが、私は常に少年の好奇 心を持って世界の生の息を吸収できる人でありたいと 考えている。vita brevis, ars vero longa.(人生は 短く、学芸は永し)。学問も芸術も時を越えて受け継 がれ、人間の文化的財産となる。知への追究を志す所 以である。 ----------------- 注)garcon の c の文字にはフランス語のセディーユを 付けて下さい。