教育問題についての私見

 教育問題は難しいですね。昨今でも、初等中等教育の見直しが進められ、3年後には義務教育で教える従来科目の内容が大幅に削減されることが決まっています。
 でも、大学に勤めるものとしては不安を隠せません。最近の大学生は学力が低下している、というのは私の周りのどの先生も感じている深刻な事態ですから。ただし、以下の文はあくまで私見です。



 別に台形の公式とか、帯分数(1と1/3のような)をやらなくなってもそうは困らないでしょうし、小学生のかけ算は4桁ではなくて3桁までとするのでも、やがて本当に貨幣のデノミをするのなら大きな数を扱う必要も感じなくなるだろうし、二次方程式の解の公式だって義務教育でやらなくてもいいかもしれないでしょう。
 物理を習わず、放物運動も知らないで理1(東京大学で理学部や工学部に進学する人たちが2年間を過ごす教養課程のコース)に入ってくる人が居ても(既にいる)、確かにそんな人が理学部に進学するのならやばいけど、そうでなければ、まあ許すとしましょうや。高校生の言葉が貧弱で敬語も使えなくたって、それはもはや日本語における豊富な語彙や敬語の必要性が薄れているというだといって済ませることもできるかもしれない。でもやっぱり心配。
 俗に業界では2006年問題とか言われています。新課程で高校に入学した人が大学に入ってくる年。

 理科系に限って言えば、基礎学力の低下は直接的に問題を生じます。方程式が解けない学生なんて、たとえどんなに想像力や独創性があっても、それは(広い意味での)研究には役に立たないからです。最低限の学力は必須。もちろん今の暗記学問がいいとは決して思ってはいませんが、単に学習内容を削減して済む問題でもないでしょう。理科離れが騒がれて久しい中、技術立国日本を支えてきた産業、科学技術、そしてようやく西洋並になった基礎科学分野の研究に一抹の不安がよぎるわけです。

 教育改革の一番の問題点は、(日本の役所はいつもそうですが)将来のビジョンが見えてこないことです。今後小学校から大学院に至るまでの日本の教育を、どうしたいのか、どう変えたいのか、その全体像をきちっと話してくれる人がいない。例えば初等、中等教育の削減だって、それを大学で補う形で改革する、というつもりならば(実現できるかどうかの議論は別として)何の心配もしないでしょう。アメリカのように、高校までは自由に遊び、大いに人生経験をし、で、大学に入ればみな脇目も振らずに勉強する。しない奴はばんばん落とされて、卒業できない。逆に入試は止めて、来るものは拒まず、でも簡単には出しませんよ、と。これも一つの可能性でしょう。それも悪くはあるまい。しかし、高校までもゆとり教育にして、大学でも今まで通り遊ぶのなら、それではこの国の将来は崩壊してしまわないだろうか。

 日本(それに中国、韓国など)の教育が入試偏重になってしまうのは、もとをただせば科挙以来の歴史かもしれないけれど、うちの子と隣の子とを比較して、常に「機会の平等」でなく「結果の平等」というか、右へならえ、隣をまねろ、という群集心理があるわけでしょう。なにもみんなが高校へ、大学へ、進学しなくったっていいのです。肉体労働が好きな人はすぐ就職した方が若い活力を生かせるだろうし、専門学校へ進学して専門職を身につけることだって、それが向いている人はそうするべきでしょう。あるいは逆に、学問が得意な生徒には質の高い教育を与え、飛び級をしたって構わないからその人の才能を最大限伸ばす環境を用意するべきでしょう。現在の日本の状況は、あまりにコースが一元化しているのがそもそもの困ったところなのです。
 以前ドイツ人と教育システムについて議論していて、日本人がみんな大学へ行こうとするのなら、いったい誰が職人になり、大工になり、そういった仕事を支えていくのだ、と驚かれたことがあります。ドイツはじめ西欧の教育システムでは、15歳ぐらいの年齢で進学コースと実務コースという感じで分かれ、18ぐらいで更に道が多岐に分かれるそうです。みんな一斉におんなじ学校を目指し、一斉に入社し、会社に入ってまで研修と称した教育があり(電話の応対まで教えるなんて...)、なんてことをやっているようでは、(お)受験熱は増すばかりです。そして、(そもそもこれが良くない言葉ですが)3Kの職場の担い手が居なくなった日本では、外国から労働者を雇い入れ、必要がなくなったら強制的に国外追放する。これはやばいでしょう。私の知っている西欧では、例えば技術者というのは社会的にもとても地位が高い。研究所にいる technicians は研究者からも信頼され、一目置かれ、彼らもそれを誇りにしているのです。また、5時をすぎると掃除のお姉さん(!)が入ってきて、彼らの仕事をして帰っていく。だから我々が自分でオフィスの掃除などやろうとすると怒られます。彼らの仕事を取ってしまうことを意味するから。第一、掃除用具のロッカーは鍵が掛かっていて、我々研究者は使えない。いえ、掃除の人の話まですると、過去の西洋の階層社会が根底にないとも言えないので都合が悪いのですが、それとは正反対に国民の8割が中流意識を持ち、農業が疎まれ多くの人が都会でオフィスワークをしたいと思っている、その特殊な国民性自体に難題が存在するのかもしれません。

 ついでに言えば、昨今の学級崩壊は、学校、家庭、地域、社会の全てに問題が絡み合っていると考えます。教室で走り回るなんて、学校以前に家庭でのしつけであるし、それを他人が注意できない地域社会の問題でもあるし、大人を尊敬できない子供には、大人が尊敬の対象でなくなってしまった社会の恐ろしさが潜んでいるでしょう。教育問題をどうすべきなのか、私にも正解は分からない。でも、今まで押さえ込んできて維持してきた学校社会が、体罰禁止、管理教育の見直し、個性の尊重といった世の中の考え方の変化の中では成立しえなくなってきていて、ならばどうすればいいのか。理想と現実は確かに大きなギャップがあるでしょう。みんなで考えなくてはならない、この国の大きな問題であることだけは確かだと思います。だから、それを大学生がだれも議論したがらずに、おいしいレストランや如何に楽して単位をとるか、といった話ばかりしているようなら、それこそ末恐ろしいと感じるのですが。

 とりとめがなくなりつつなってきたので、このへんで。


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